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 ネパールの大地震ではとりわけ田舎の山間部の被害が大きく、しかし時間がたっても被害状況などの情報すら少なかった。山間部はもともと車の通れない道しかない村が多数存在し、支援も全く届いていないという。

 

 国内で最も被害が大きいといわれる、首都カトマンズから東北東のシンドゥパルチョーク郡。車を降りて川にかかる吊り橋を渡り、棚田が続く山道を40分ほど登る。ようやくシムリ村にたどり着くと、村人たち40人ほどが私のもとに集まってきてこう言った。「よくここまで来たね、地震後外からこの村に来た人はあなたが初めてだ」。救援などがまったく届いていないことを意味していた。山の斜面にある村の住居は1件残らず崩れ落ちていた。瓦礫の下に埋まっているという水牛の死臭がただよう。

 

 村の一番下方にあるスペースに木とトタンで作った小屋。地震後に総出で作り上げたこの小屋に100人が身を寄せ合って暮らしている。地震発生日から13日目のこの日は、ヒンズー教の供養に当たる日。5人が亡くなったこの村でもちょうど供養の儀式をやっている最中だった。頭髪を剃り白い服に身を包んだ犠牲者の家族たちが、白いビニール屋根の下で死者を弔っていた。

 

 さらに東方の山岳地帯のドラカ郡には、ヒンズー教徒のネワール族とチベット仏教とのタマン族の集落が混じりあっている地域だ。建物もこれまでのレンガ造りから石を積み上げたものに変わった。しかしそのもろさは変わらないようで、多くの家が崩れ落ちている。「人も物資もなにも来てないよ」、とアニル・ラマ(23)は言う。彼の村は舗装道路沿いにあるにもかかわらずだ。急ごしらえした小屋のトタン屋根からは雨が滴りおちるという。

 

 その道路沿いから遠く、小高い岡の上にまとまる集落が見えた。石造りの家が9軒。その家が建っていたらまるで「天空の城ラピュタ」のようにも見える集落は、やはりすべて崩れ落ちていた。このシュアラ村には35人が暮らす。ジャガイモやたまねぎを育て水牛からミルクを採る農業を主とした村。地震の時にはみな畑に出ていて犠牲者はいなかったという。ここでもトタン屋根の小屋で生活していた。「ここを出たってどこにも行くところがない。村に残って生きていくしかないんだ」、とナム・ハルカ・グバジュは話した。

 

 しかしもともとこうした村では、家も自分たちで造りほとんど自給自足に近い生活をしてきた。支援を待つより自分たちでと、すでに山から土と石を運び、かき集めた材木であらたな家を建て始めているひとたちがいた。女性たちは地震後も変わらず畑に足を運び土を耕す。現実を受け入れたくましく懸命に生きる人々の姿がそこにはあった。

​写真 文/岩波友紀

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