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 2011年の東日本大震災が引き金となった福島第一原発事故により、上空に大量の放射性汚染物質が放出された。同原発から20キロ以上離れているにもかかわらず、風下に位置したために深刻な被害を受けたのが福島県飯舘村だ。村内全域で年間被曝量が20ミリシーベルトに達するほどの高い放射線量が計測され、同年4月に「計画的避難区域」に指定され、全村避難が決定した。

 

 「村から人が消える。ここにはもう人は住まないのかもしれない―」。そんな思いから、事故後の5月、初めてこの村に向かった。放射性物質があるからといって、村の風景に異変があるわけではなかった。阿武隈山系の高原。新緑が美しく、ひんやりする空気が心地よい。既にほとんどの村民が避難し、牛を世話する酪農家など、何らかの事情でまだ避難できない人たちが残っていた。このときに会った8組の住人を村の風景とともに撮影させてもらった。

 半年後、手を加えない田畑には雑草が生い茂り、民家の庭先も荒れている。それは村から人がいなくなったことを確実に、目に見える形で物語っていた。

 

 その後も村を訪れ、同じ場所でその風景を写した。最初は荒れ続ける風景があった。時が経つと除染作業が始まり、雑草が刈り取られた。表土が削られた田んぼには新しい土が敷かれたため、あたりが不自然なほどにまっさらに感じられる時期もあった。除染廃棄物を詰めた黒いフレコンバッグがそこに積み上げられた時期もあった。

 

 4年が過ぎた今年、その時撮影した人たちに連絡を取ってみた。すると、全員が県内の他市町に避難したままだった。ずっと仮設住宅にいる人、避難先で商売を再開した人、酪農を辞めた人、避難先の地で家を購入した人。それぞれの事情で、それぞれが新たな生活を送っていた。そして、比曽地区の中島覚さん、長泥地区の菅野春信さんが亡くなったことを知り、村へ帰れる日を待ち続けるには、あまりにも長い時間が流れていたと感じざるを得なかった。

 中島さんに最初に会った4年前、ちょうど自宅近くを歩いているときだった。今年4月、中島さんの妻・美子さんにその後の様子を聞くことができた。

 

 息子夫妻と暮らしていた中島さんと美子さんは埼玉県に一時避難した後、福島市の借り上げ住宅に移り住んだ。避難生活の長期化に伴い、より安定した生活を送るために伊達市に新しく家を建てることに。そして、孫娘の成人式の今年1月11日。その新しい家で、晴れ着姿の孫を囲んで皆で記念写真を撮った。「昼寝するわ」。その後そう言って寝室に入った中島さんは、ベットの上でそのまま亡くなっていた。飯舘では野菜、米、タバコなどを作り、常に体を動かしていないと気がすまないような人だった。だが、避難後はすることがなくなり、目に見えて元気がなくなっていくのを家族は心配した。毎日散歩に連れていた愛犬が死んでからは、さらに家にこもりがちになった。口癖のように「早くうちさいくべなあ」と、飯舘の家に帰りたがっていた。それなのに、たまに戻っても雑草に覆われた自分の農地をなすすべなく見つめるだけだったという。「家に帰りたかったろうにな。せめて死ぬときだけでも自分の家でなあ」。美子さんは孫の成人式に撮った家族写真をじっと見つめた。

 「この家、全部自分で建てたんだ」。2011年、その自宅の前で菅野春信さんに会った。妻のつるさんと福島市の旅館に避難する少し前だった。大工だった菅野さんは25歳で本家を出て、自力で家を建てた。家の前には、にんにくやインゲンを植えた畑があった。全村避難後の12年7月の飯舘村の避難区域再編で、菅野さんの住む長泥地区は村内では唯一、「帰還困難区域」となった。積算放射線量が年

 

 50ミリシーベルトを超え、政府が原則立ち入りを禁止し自由に立ち入ることすらできなくなった。
結婚した時は式も挙げられなかったという。食べることもままならなかった時代に、「半ば強引に引っ張ってこられてね」と、つるさんは当時を思い出す。春信さんは建築仕事、つるさんも土木仕事で稼いだ。そのかたわらで野菜を作り、稲作も一から始めた。ふたりで苦労して働いて生きた記憶しかない。原発事故が起きたのは、ようやく気楽な生活でも始めようかと思っていた矢先だった。悔しさやつらいことを絶対に口にしない春信さんが12年の秋に突然、身辺整理のような話、そして、めったにしない思い出話をしたという。それでも、最後まで無念の言葉は一回も言わなかった。「全部自分一人で抱え込んじゃって。どんだけの悔しさがあったかね」と、つるさんは一時帰宅で入った長泥の自宅から荒れ果てた畑を見ながら話した。

 

 末期の癌を患っていた菅野さんは、14年の6月を最後に、二度と故郷の長泥を訪れることはなかった。その滞在も車椅子に乗り、体に管が通ったまま、わずか2時間ほどだった。村を訪れた1週間後には再び入院し、そのまま病院で息を引き取った。

 

 不便な山奥でも、キノコや山菜、魚をとって食べる生活が楽しかった。なによりふたりとも生まれてから住み続けてきた故郷だ。長く仮設住宅暮らしが続いているつるさんは、長泥にはもう帰れないと思っている。時々家に帰っては修理や掃除をする。神棚にご飯をお供えし、夫と築き上げた思い出の家でいっときを過ごし、お墓に眠る春信さんに会いに行く。「一晩でいいから泊まりてえなあって、入院中言ってたんだよね」。その願いはかなわなかった。

​写真 文/岩波友紀

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