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Vol.7
昔の風景 取り戻したい
福島 米農家の意地

 福島第一原発事故でばらまかれた放射性物質によって福島県内の農業は大きな打撃を受けた。米は日本の主食でもっとも大事な農産物だが、近年の産業としての衰退に原発事故が加わり、福島の稲作は危機を迎えている。日本の原風景とも言える水田の風景は、雑草に覆われ見る影もない場所も多い。今年産の米の概算金(全農県本部が農家から販売委託を受けたとき支払う価格)は需要減、過剰在庫、豊作で大きく下落し、特に風評被害も受けている福島県産コシヒカリの下落率は著しく、中通りと浜通りで昨年比35%以上(それぞれ一等米60kgで7200円と6900円)。事故から4年目。3つの地域を取材した。

伊達市霊山町小国地区(上小国と下小国)―福島第一原発からは50キロ以上も離れているが、事故当時の風下に当たる方角にあり、2011年、特定避難勧奨地点(注1)が指定される家が出た地域だ。 11年、原発事故後初の米の収穫で、地区内の2戸の水田の米から国の暫定規制値(500ベクレル/kg)を超える放射性セシウムが検出された。地区内の米は全て出荷停止となり、翌12年は地区全体が作付け制限になった。

「この景色ね、日本昔話みたいな景色でしょう?この土地にね、誇りを持ってるんだよ」。山に囲まれた谷地が細長く続く。朝には霧が谷地を覆い幻想的になる。棚田が秋には黄金色に染まり、春には鏡のように周りの山々を映し出す。その風景は今、荒れて雑草で茶色にくすんだ田んぼも目立ち、いつくかの農地は除染廃棄物の仮置き場になっている。この土地に愛着があり、ここに住んでいることが何よりのぜいたくだったと話す惣洋さん。米は野菜などとともに親しい人に送ったりしていたが、もう出来ない。安全と言われても子どもや孫には食べさせられない。喜んで食べてもらえないものを作るのに何の意味があるのかと、農業への意欲は打ち砕かれた。
それでも、立ち上がった。惣洋さんらは「放射能からきれいな小国を取り戻す会」を設立。地区内の農地や宅地の空間線量を測定しデータマップを作成したり、農産物の放射線量測定体制の確立などの活動を行った。「昔の景色を取り戻したい」。コメ作りにこだわる理由はその一点だ。 下小国の清野光さんは11年以来3年ぶりに稲作を再開した。昨年すでに作付け制限は解除されていたものの、米は作らなかった。専業農家の父親の死をきっかけにトラック運転手を辞め妻の好子さんと農業を継いだが、すでに農業だけでは暮らすのは厳しい時代だった。「先祖代々の土地だからなあ…。昔は他にも田んぼあったけど、年寄りふたりじゃ限界で」。米を作り続ける理由をこう話した。

 川内村―米の廃棄処分を終えて、玄関に座り込んだままうなだれていた秋元美誉さん。刈り取った稲を田んぼにたたきつけた秋元正さん。そんなふたりの姿があった2011年秋。今年の春には、県内外から来た大人や子どもたちとともに泥の中で苗を植えるふたりの顔には笑顔があふれていた。全域が福島第一原発から30キロ圏内にある川内村は11年には作付け制限が出された。このとき、ふたりは行政に抵抗して米を作った。自分で作って放射能の影響を調べる目的だった。しかし、結局廃棄するよう命じられ、刈った米は田んぼにそのまま埋めた。
 専業農家の美誉さんは農業のことしか考えてこなかった人生だった。「安全なものを食べてほしい」。その思いで、初孫が生まれたことをきっかけにアイガモ農法を取り入れ、試行錯誤を繰り返し有機栽培を行ってきた。原発事故は自分のかけてきた農業を一瞬にして奪った。人に食べられない米を作る悔しさを味わった2年連続での廃棄処分。あれからようやく安全な米を作れるようになった。

 作れるからといって福島産の米が今後消費者に受け入れられるとは思わないと美誉さんは言う。昨年と今年は政府備蓄米として買い取ってもらうため売れる保証はあるが、それが無くなったらどうなるか。農家として今まで通りやっていたらだめになると危機を感じた。美誉さんは首都圏などから田植えと稲刈りの体験をしてもらっている。自分たちで作ってもらい安全を確かめてもらう趣旨だ。アイガモ農法も復活させ、昨年作った米の一部は「福幸米」と名付けブランド化した。そんな美誉さんの活動は知れ渡り、小学校の稲刈り体験や、県外からの修学旅行のコースなど様々な依頼が舞い込む。70歳で農業を引退するつもりだった美誉さん。「いやあ、なんだかやめられなくなっちまったな」。今年でもうその歳になった。12年の村内30か所での試験栽培を経て、昨年には居住制限地域を除いた村の大部分で作付けは可能になった。それでも昨年の作付面積は震災前の約5割。今年になっても約6割ほどだ。

田村市―渡辺常雄さん夫妻は今年、原発事故後初めて作付けを再開した。小さな孫のこともあり、原発事故後一家3世代で滋賀県に避難。避難先の知り合いの田んぼで稲作の手伝いをして思ったのは、「やっぱり自分の米、つくりてえなあ」。2012年の夏に田んぼの放射線検査で問題がなかったため、自宅に戻った。ゼオライトを撒くなどの準備を経て、例年の5分の4の作付面積で4年ぶりの再開に至った。  20年ほど前に大型の農機具、米の乾燥機など数百万円かけて全てそろえた。そのころは今の価格の倍以上の時もあったが、今の価格では「やればやるほど赤字。それでも先祖の土地を荒らすことはできない」。

「数年作らない時期が続くと、もう再開する意欲がなくなってしまった人も多い」。どこの農家でも、周囲の現状としてそんな話を聞いた。高齢者だけでやっている農家も多いため、再開してもこの先何年も続けられないという。それでも、稲作と田んぼの風景を守ろうと奮闘し、子供たちに農業を伝える努力をする人たちがいる。

福島県内産の米は全てに放射性物質検査が行われており、万が一食品衛生法に定める基準値(100ベクレル/kg)以上の放射性セシウムが検出されれば市場に流通しない。2014年産の県内産米の結果は、100パーセント基準値を下回った(うち99.98パーセントは検出限界値である25ベクレル/kg未満)。(2014年取材)

 

 

写真 文/岩波友紀

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