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 「棄民だよ、俺たち。牛は捨てられた。人間も捨てられる。当時捜索できなかったろ。見捨てられたんだ」。東京・霞が関。日本の中枢、官庁街に似つかわしくないTシャツにキャップ姿の男が声を張り上げて悲痛な声を上げた。近くにはそれ以上に場違いな、黒い和牛を乗せた汚れた搬送車。スーツ姿で歩く人たちは一瞬ぎょっとし、なにごとかと牛に目をやる。しかし多くの人はそれ以上なくただ通り過ぎていく。

 

 体に白い斑点模様があるこの牛は、福島県浪江町、東京電力福島第一原発から約14キロにある牧場から連れてこられた。男はその牧場「希望の牧場・ふくしま」代表の吉沢正巳さん(60)。原発事故で被爆した牛の調査や、旧警戒区域内の家畜の殺処分中止を農水省に要望するため、牧場の牛を連れて霞が関までやってきた。東日本大震災発生時、有限会社エム牧場浪江農場の農場長として牛を飼っていた吉沢さんは地震で被害を受けた牧場で、停電の中発電機を回し懸命に牛に水を飲ませた。まもなくして原発事故が起こる。牧場に来ていた警察官も避難する中、牛たちのために残り続けた。


 約1か月後に原発周辺20キロ圏内は立ち入り禁止の警戒区域となった。世話をする人がいなくなった区域内の家畜は餓死するか、野に放たれて野生化した。その1か月後には政府によって区域内の家畜の殺処分が指示される。多くの家畜は処分されたが吉沢さんは牛を生かし続けた。被爆してすでに経済価値はない牛たちだが、牛飼いとして殺すことは出来なかった。殺処分に応じざるを得なかった牧場から批判も受け、なぜ生かし続けるか自問自答も重ねた。それでも「この牛たちは被爆状況の生きた証拠で、調査研究することで将来への大きな価値になる。それを殺してこの悲劇が無かったことにされたくない」と、牛を養い続けてきた。

 

 

 

 戦時満州で抑留され帰国した父がやっとの思いではじめた牧場の仕事。40年間、その仕事を継いで生涯の仕事としてずっと「牛飼い」をやってきた。自分たちを食わしてくれた牛をモノとしては扱えない。エサをやらなければいけないと思ったのは自然だった。牧場から爆発音を聞き、原発からたちあがる噴煙を直接見た。逃げなければ、とは思わなかった。原発への放水をする自衛隊員を見て、「牛飼いの俺はここで自分の出来ることをしなければ」と、決心した。モヤシ工場から豆の皮を調達し、設置されたバリケードを突破しながら牛の命を守ってきた。それでも餓死した多数の無残な牛の姿を目の当たりにしなければならなかった。

 約1年後には今まで見たことがない白い斑点が数頭の牛に現れた。きちんと調査して今後の役に立ててほしいと国に何度も要望してきたが全く対応してもらえなかった。旧警戒区域内からの家畜の搬出は法律で禁止されているが、「本気で原発事故問題に取り組んでほしい」という思いが我慢の限界に達しての行動だった。

 トラックに乗った牛が農水省前に到着し吉沢さんらが牛を降ろそうとすると待ちかまえていた警察官ふたりが体で阻止し、現場は一時騒然となった。結局牛はトラックから降ろせなかったが、農水省の担当者に要望書を提出。さらに環境省に行き「金目発言」をした石原環境相への抗議文書を提出した。

 原発事故で8万人が家を追われて帰ることが出来ていない。警戒区域は再編されたが、浪江町は現在全域で住むことが出来ない。同町含む原発周辺地域では原発の爆発によって津波の行方不明者の捜索すら出来なかった。浪江町では震災関連死の死者が300人を超え、津波などの直接死を上回る。「棄民」という言葉が響く。その重い言葉も、霞が関の高いビルとビルのあいだに抜けていった。(2014年取材)

写真 文/岩波友紀

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