Nepal Earthquake

On April 25th 2015, central Nepal was struck by an earthquake measuring M7.8. As of May 8th, in Nepal and the surrounding countries, the death toll has exceeded 8,000 and approximately 560,000 homes have been destroyed or damaged. Rows of old houses built from bricks and wood have crumbled, leaving towns and villages in ruins. Residents have put up tents in the empty spaces, while many of the victims are carried to the morgue to be cremated. Whole villages have disappeared in the mountainous areas where damage has been severe. Lacking roads fit for vehicles, many rural area have yet to receive any emergency food or supplies, let alone grasp the extent of damage.

 「ありがとうもいえなかった。とても優しくしてくれた母だったのに・・」。サニス・ドジュ(26)は、赤々と暗闇を照らす母サンタマヤ(56)の火葬の炎をじっと見つめていた。ネパール中部、バクタプル。2015年4月25日、マグニチュード7.8の大地震が同国を襲った。29日、母親が見つからないサニスらのもとにやってきた日本の救助犬が、倒壊した自宅の台所付近を吠え示す。それを受けたネパール軍20人ほどがスコップを手に煉瓦と土を掘り出していった。「いたぞ!」。夕刻がせまり、あきらめの空気が広がり始めたころひとりの兵士がそう叫んだ。兵士が指し示す先には、人の背中らしきものが見える。「はい、間違いない」と、身につけていたものからサニスは母親だと確信し兵士に告げた。瓦礫と土にすっかり埋まり、すでに息絶えていた。

 土をかき分けそこから出されたサンタマヤの遺体は兵士によって道まで担架で運ばれると、彼らに代わってすぐにサニスら親族が数百メートル離れた火葬場まで運んだ。ヒンズー教では死亡後できるだけ早く火葬し川に遺灰を流すことが良いとされているからだ。夕闇の中、家族の嗚咽が街に響く。すでに通常の火葬台は犠牲者で埋まっていたため、そばの空き地で火葬が始まった。母親の火葬を取りしきる立場のサニスは、本来であれば火葬時用の白い服などを着るなどの準備をしなければならないがこの緊急時には何もできない。儀式を終えると、母の体に火がつけられた。

 この地震で死者は8000人を超え、被災者は数百万人。約56戸の建物が全半壊した。地震後はどこの町も火葬台が足りないほど犠牲者が運ばれ、あちこちからのろしの柱がたっていた。煉瓦木で作られた古い家並みのバクタプルやサクーといった都市では、家々が軒並み崩れ落ち、廃墟と化した街を土煙が覆っていた。首都カトマンズのダルバール広場でも煉瓦や石で作られた寺院の多くが倒壊。市内のあちこちでビルが傾いていた。騒ぎが落ち着くまで、カトマンズを離れようと、地方へ向かう長距離バス乗り場には市民が殺到し、インド政府などは市内に住む同国民の避難のために数十台のバスを用意した。

 自宅が壊れたり、余震を恐れて住民たちは路上や公園、空き地などに避難しテントを作り生活を始めた。カトマンズ中心部の広い公園に並ぶテントに生活する人たちに話を聞くと、ほとんどが地方から出稼ぎに出てきた家族たちだった。古く安いアパートを借りて暮らしているため、建物も脆かったようだ。カトマンズから東方のドラカ郡から出稼ぎに来ているブルガ・バハドゥール・ネパリさん(45)は8人家族。布を作る仕事をし、息子もここで警備の仕事をしている。発生当時は倒壊したビムセンタワーの下にいたが、難を逃れてこの公園に逃げてきたという。自宅アパートは崩れ、そのままここで避難生活をしている。「故郷の情報が全然入ってこない。自分の家がどうなったかもまだわからないんだ」と話す。車もお金もないため帰ることも出来ないという。仕事が再開されたらここから通うつもりだ。

 カトマンズから北東のシンドゥパルチョーク郡。今回被害が最も大きかった地方だ。ネパールの地方部はもともと車が入れないような道しか続いていない村があちこちにある。そのため救助や支援物資の配布ができないどころか、被害状況の把握すらできていないところも多い。

 車を降りて川にかかる吊り橋を渡り、棚田が続く山道を40分ほど登る。ようやくシムリ村にたどり着くと、村人たち40人ほどが私のもとに集まってきてこう言った。「よくここまで来たね、地震後外からこの村に来た人はあなたが初めてだ」。救援などがまったく届いていないことを意味していた。山の斜面にある村の住居は1件残らず崩れ落ちていた。瓦礫の下に埋まっているという水牛の死臭がただよう。村の一番下方にあるスペースに木とトタンで作った小屋。地震後に総出で作り上げたこの小屋に100人が身を寄せ合って暮らしている。地震発生日から13日目のこの日は、ヒンズー教の供養に当たる日。5人が亡くなったこの村でもちょうど供養の儀式をやっている最中だった。頭髪を剃り白い服に身を包んだ犠牲者の家族たちが、白いビニール屋根の下で死者を弔っていた。

 さらに東方の山岳地帯のドラカ郡には、ヒンズー教徒のネワール族とチベット仏教とのタマン族の集落が混じりあっている地域だ。建物もこれまでのレンガ造りから石を積み上げたものに変わった。しかしそのもろさは変わらないようで、多くの家が崩れ落ちている。「人も物資もなにも来てないよ」、とアニル・ラマ(23)は言う。彼の村は舗装道路沿いにあるにもかかわらずだ。急ごしらえした小屋のトタン屋根からは雨が滴りおちるという。

 その道路沿いから遠く、小高い岡の上にまとまる集落が見えた。石造りの家が9軒。「天空の城ラピュタ」のようにも見える集落は やはりすべて崩れ落ちていた。このシュアラ村には35人が暮らす。ジャガイモやたまねぎを育て水牛からミルクを採る農業を主とした村。地震の時にはみな畑に出ていて犠牲者はいなかったという。ここでもトタン屋根の小屋で生活していた。「ここを出たってどこにも行くところがない。村に残って生きていくしかないんだ」、とナムハルカ・グバジュは話した。

 しかしもともとこうした村では、家も自分たちで造りほとんど自給自足に近い生活をしてきた。支援を待つより自分たちでと、すでに山から土と石を運び、かき集めた材木であらたな家を建て始めているひとたちがいた。女性たちは地震後も変わらず畑に足を運び土を耕す。現実を受け入れたくましく懸命に生きる人々の姿がそこにはあった。