「高校生が登下校でここを通るでしょ。若い子たちの笑い声が戻ってきて、だいぶ変わったよね。」と、JR小高駅からほど近い場所で鮮魚店の谷地魚店を営む谷地茂一さんは話した。福島県南相馬市小高区は、避難指示が昨年7月12日に解除(帰還困難区域の1世帯2人を除く)されてから1年が経った。谷地さんはその日に自宅に戻り、その3日後には5年4ヶ月ぶりに店を再開。当時は1日15人程度だったお客さんは、今ではほぼ倍くらいに増えていることから、徐々に人が戻ってきていることを感じているという。
その高校生とは今年4月に開校した小高産業技術高の生徒たちだ。もともと小高にあった小高工業高と小高商業高が統合し、小高工業の校舎で開校した。両校はそれまで同市原町区の仮設校舎で授業を行っていた。
小学校も同じく今年度から6年ぶりに小高区内の校舎に戻ってきた。同区にはもともと4つの小学校があったが、生徒数の激減から4校合同という形で小高小学校の校舎で再スタートした。原町区の仮設校舎から移転する際には20人ほどが転校し、生徒数は62人。地元の街を探検したり小高の史跡を巡るといった、以前から行われていた街に親しむ授業に力を入れて取り組む。
市によると小高区への帰還者数は6月30日現在2008人で、震災前の1万2842人の15パーセントほど。街中では家の解体や新築が追いついていない状態で急ピッチで行われており、家ができれば戻るという人も多いという。逆に特に若い世代は、原町区や市外の避難先ですでに家を購入したりと新しい生活が始まっていて、もう戻ることはない人も多数いるという。
駅前には小高の情報発信をするアンテナショップ「希来」が2015年1月から営業している。隣で旅館を営む小林友子さんが、地域のにぎわいを取り戻すためにと開店した場所だ。昨年解除されるときに話を聞いた店長の脇亜希絵さんと、小林さんに最近の状況を聞いてみた。「みんな疲れちゃったのよね。避難で何度も引越しして」。戻る人も戻らない人ももうこれ以上動かずに生活を安定させたいと願う人が多いのではないかと言う。「おじいちゃんやおばあちゃんの会話にね、シーベルトだのベクレルだのって言葉が普通に出て来るの。食品の話で、高い低いって言うのも値段じゃなくて放射性物質量のこと。普通ではないけどこれが小高の日常。でもみんな心配なものはすぐ測量センターで測るし、山菜でもアク抜きすれば放射性物質が半分になるとか経験からの知恵がもうついている。きちんと知っていれば、不安なく対処できるから」と放射線への対策も話してくれた。
2012年3月に日中の立ち入りのみ可能になった頃からしばらく、商店街には人も車も通らず、地震で崩れた家もそのままだった期間が長かった。それから比べると普通に近い状態にまでなっていることが時間の流れを感じる。家屋の解体や新築工事が随所で見られる。しかしコンビニや、医療機関、金融機関などは営業を再開しているが、商店街を歩いてみても開いている店はまばら。津波を受けた沿岸部は復旧工事の最中で、農地回復もまだできない。
子どもを持つ親の世代の多くはこの6年の間に避難先で生活を立て直し安定させた。そのためまた小高に戻り仕事や生活を一から始めるのには難しいのが現状だ。そのため戻った人は高齢者が中心になっている。それでも若い子たちの声が街に希望を与えている。「今の高校生、あいさつしてた?」と、東京からボランティアで訪れていた岡村綾子さんは男子高校生の姿を見ながら嬉しそうに仲間に話した。「誰もいない頃からここで活動しているので、若い子の姿を見ると感慨深いです」。
今でも帰るか帰らないか迷っている人は多いが、「来年3月に原発事故の賠償が切れるから、その辺りがみんな決断の期限ではないか」という言葉を多くの住民から聞いた。
写真・文 岩波友紀